反応しない心 その2 決めつけ、判断

前回の記事の続きになります。ご覧になりたい方はこちらへ👇

人間が悩む理由として、決めつけや思い込み、比較するということがあります。
自分と他人を比較したり、自分なんてと卑下したり、どうせうまくいかないと不安になったり、
これは好き、嫌いなどと決めつけてしまい、心で判断してしまいます。

自分を見ても、周りを見てもそういう人がたくさんいると思います。
自分の意見を押し通す人、意見されると怒る人、または逆にどうせ自分なんてと思い込み、
自分ひとりで結論を出してしまう人。
こうじゃないとと思い込めば、潔癖や完璧、頑張り過ぎてしまったり。

このように判断する心というのは、私たちの人生の中に深く溶け込んでいます。

判断する理由

私たちは、自分自身のこと、他人のことなどあらゆることを判断したがります。
その理由の1つとしては、本能的な部分です。
善か悪か、正しいか間違っているかという判断は、自分が結論を出した気になるので気持ちが良くなります。

もう1つは、前回もお話した五欲(ごよく)のひとつである承認欲求です。
これにより、自分が判断したから認められる、自分が正しかったと思いたいのです。
つまり、わかった気になる快楽と承認欲求が満たされる快楽の2つの快楽によって、人間は判断したがるのです。

もしこの快楽だけであれば、良いことかもしれませんが、
ここに執着(しゅうじゃく)が出るとたいへんです。執着は常にまとわりついているので、
ちょっとしたことで姿を表します。

例えば、お子さんが今まであんなに楽しく学校に通っていたのに、
ある日突然行かなくなり部屋に閉じこもってしまった。このようなご家庭がよくあります。
お話を聞いてみると、親御さんはどうしても子供の将来のために、学校に行ってもらいたいと言います。
ですがよくよく聞いていくと、親御さん自身が過去に失敗していたり、周りへの世間体であったりする、
内面が見えてきたりします。

そうなると、お子さんは気持ちをわかってくれない、なぜ学校に行くのか、
なぜここにいるのかといろいろわからなくなってしまいます。

これは一例ですが、こうしたことが非常にたくさんありますし、
もしかするとこれを読んでいるあなた自身が当事者かもしれません。

執着や妄想をあきらかに見る

仏教では、このような悩みや苦しみをあるがままに見ます。
この親御さんやお子さんを「間違いがある」と判断しようとはしません。
この方々の心にはどんな原因があるのか、どう考えれば苦しみから離れられるかを理解しようとします。

この親御さんの例では、過去に失敗した(挫折感)や周りに認められたい(承認欲求)が見られます。
そして、その心にまとわりつく怒り。
これにより、「自分はよい学校に行けなかった」、「だからこういう状況なんだ」、
「周りの子はきちんと行っている」などと決めつけ、心で判断してしまいます。
その心の判断により、執着となって自分も、さらにはお子さんまでも苦しむのです。

業(カルマ)は人間の行いであり、それは阿頼耶識(あらやしき)に蓄えられます。
川というのは、遮るものがなければ上流から下流へとさらりさらり流れます。
我々人間が悩み、苦しみを感じるとその心には必ず執着があります。
その執着によって、さらりさらりの川が滞り、流れが悪くなったり、曲がったりします。
だから苦しむのです。

それから離れるために、あきらかに見る(諦める)のです。
もちろん生活や仕事、将来などの選択で必要な判断はあります。
そのことでしっかり前が見えることももちろんあります。
しかしその心の判断に執着してしまうと、苦しみができます。

この世界はすべて無常です。変わらないものなど無いです。
かつての願いが叶わなかったという事実。
この願いはもはや存在していない、頭の中の妄想です。

自分の決めた判断や相手への期待感、これはまだ頭の中にしかないので妄想です。
本来「ない」ものを「ある」と思ってしまうことを、顛倒(てんどう)と言います。
つまり、勘違いです。ありのままを見ることができずに、真実が見えなくなってしまいます。
ですから、目の前の現実を、自分の心をあきらかに見て、正しく理解しましょう。

慢(まん)という心

ここまで示してきた心の判断は、いわゆる負の感情からでした。
私たちを悩み、苦しめる判断には自分を肯定することからも生まれます。
「自分はすごい」、「自分は正しい」と肯定しすぎる心のことを(まん)と言います。

プライドや虚栄心や傲慢、逆に、劣等感(自分なんて)や自信がないというのもこのです。
お釈迦様は、判断する基準を、

「真実であり、有益である(役に立つ)こと」

と教えてくれました。真実であるというのは、なかなか世界で一致させるのは難しいです。
しかし、この有益である(役に立つ)というのはどんなところでも大切な基準になります。

私たちがしている判断は、どうでしょうか。
頭の中で思い描いている段階では、そのままだと妄想なので真実ではありません。
現実に役に立っていなければ、有益でもありません。

ですから、ほとんどの人間が考える判断は、真実でも有益でもありません。
なのになぜ判断するのかは、最初に言ったように、
わかった気になる快楽と承認欲求が満たされる快楽の2つの快楽です。
なので、この2つの快楽は慢の原因でもあります

人間同士が集まると、必ず見解の違いが表れます。
よく、「どう考えても」と使いますよね。
この時の考えというのは、自分の頭で考えるので自分の考えしか出てきません。
さらに、その考えが正しいということにもなりません。

お釈迦様が教えてくださっているのは、どんな判断も個人の頭の中に浮かぶ妄想であるということです。
だから、正しく理解できている人は、「自分が正しい」と思うこと(慢)が無いので、
苦しみを生み出す、執着に引き込まれることも無いのです。

おわりに

今回も反応しない心について書いてきました。
心の反応を抑えるために、判断しないことが大事です。
判断は、頭の中で考えている以上、妄想にすぎません。そして、慢の心になっていないか、
勘違いをしていないか、自分の心をあきらかに見て、きちんと理解しましょう。

そして、どんなときであっても自分自身を否定しないで、肯定しましょう。
自分を否定すると、承認欲求が満たされずに、怒りが生まれます。
怒りはまた、攻撃か逃避を生みます。さらには周りにも広がります。
「なんとかしないといけない」という判断は、それもまた人を否定する心です。
だから、またその先に新たな怒りを生み出してしまいます。
どんな状況でも判断しない(否定しない)ようにしましょう。

自己肯定とか、自己肯定感という言葉をよく耳にします。いわゆるポジティブシンキング。
これと、自分を肯定することは違います。
ポジティブな言葉を自分にかけてあげようというのは、たしかに暗示として効果があると思います。
ですが、あまりにも現実とポジティブな言葉が離れていると、
考えていることと現実の自分に差ができてしまいます。

仏教では、正しい理解が基本ですので、自分の現実と合わないほどのポジティブな言葉がけはしません。
シンプルに、「私は私を肯定する」これだけでいいのです。
「ある」ものは「ある」と理解して、判断をやめて、反応しない心を保ちましょう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です