文殊菩薩は、よくことわざで「三人寄れば文殊の知恵」と言われるように、智慧の菩薩です。
サンスクリット語では、マンジュシュリーといい、文殊師利(もんじゅしり)が本名になります。
文殊師利法王子などともいわれ、特に『般若経』では文殊菩薩を相手に説かれる場合がたくさんあります。
それは、文殊菩薩は非常に智慧がすぐれているからです。
三人寄れば文殊の知恵
こちらのことわざは大変有名なので、みなさんもよくご存知だと思います。
最初に記したように、文殊菩薩は智慧の菩薩ですので、
「三人寄れば文殊の知恵」ということわざになっています。
文殊菩薩の智慧というのは、知恵とは違い、単に知識があるとか、理解が深いという意味ではありません。
智慧は、仏教では非常にすばらしい力を表し、真理をはっきりと知り、仏の力で迷いを破る働きのことです。
ですから、このことわざを聞くと、あまりできない人でも3人集まれば良い知恵が浮かぶんだとイメージすると思います。確かにそのような意味で使われることが多いです。
1つの知恵が3つ集まって、3倍になるという考え方ですね。
しかしこれだけではなく、もう少し意味が続きます。
1人の知恵では、偏りがでます。
もし独りよがりの考えであれば、失敗してしまいます。
だからこそ、他の人に相談することは大事です。
ところが、2人の知恵では意見が対立し、まとまらないことがあります。
また、共謀して悪いことをすることもあります。
それが、3人の知恵になることにより、お互いを牽制しあって、
すごくバランスの良い知恵が出てくるということです。
それがこの「三人寄れば文殊の知恵」ということわざの意味になります。

文殊菩薩はどんな人
文殊菩薩は菩薩の中でも、特にすぐれた菩薩です。
文殊菩薩を文殊師利法王子(もんじゅしりほうおうじ)とも言われます。
法王子とは、二度と崩れることのない高い悟りを開いた菩薩のことです。
ちなみに、法王は仏のことです。
このように、他の菩薩にも法王子はあるのですが、みんな文殊菩薩に譲りました。
それほどの菩薩が文殊菩薩です。
「文殊師利般涅槃経もんじゅしりはつねはんぎょう」には、
文殊菩薩は舎衛国(しゃえいこく)の多羅聚落(たらしゅうらく)のバラモンの子だと説かれています。
非常に頭が良くて、先生になれる人がいなかったのですが、お釈迦様に出会い出家したとされています。
「維摩経ゆいまきょう」では、維摩居士(ゆいまこじ)との問答が説かれ、
「華厳経けごんきょう」では、お釈迦様のあまりにもすごい説法に、集まった人々は耳も聞こえない、
声も出せないようになっている中、文殊菩薩と普賢菩薩だけは分かっている様子だったと教えられています。
それほど、ことわざにも使われるような非常に智慧の優れた人で、お釈迦様の時代に実在した人です。
文殊菩薩のご利益
文殊菩薩は、多くの寺院で祀られています。
そのご利益としては、「文殊師利般涅槃経もんじゅしりはつねはんぎょう」によると、
貧しく孤独で苦しんでいる人の姿で行者の前に現れると説かれており、
泰然(たいぜん⇒平安時代の僧)は貧しい人々に施しを行うのが、文殊菩薩の供養になると考え、
文殊会(もんじゅえ)を始めました。
しかし、それがだんだん変化していき、幸せを願い、智慧が増えることを願っていくようになりました。
こうして文殊の知恵といわれることから、頭が良くなる功徳があると考え、
今では学業成就、つまり入試の合格といったご利益を願うようになったのです。
ちなみに、入試の合格は願うより、受験勉強を努力したほうが良いです。

文殊菩薩の特徴
文殊菩薩は、大きな獅子の上に趺坐(ふざ)し、頭には五髻(ごけい)を結び、
右手に剣、左手に蓮華を持っています。
必ず獅子に乗っているわけではありませんが、だいたい獅子に乗っていれば文殊菩薩です。
なぜ獅子なのかというと、獅子は智慧を表すからです。
前回書いた記事では、普賢菩薩は象に乗っていると書きました。
この象というのは、慈悲を表します。
そして、文殊菩薩は、普賢菩薩とともにお釈迦さまの脇侍です。

おわりに
「維摩経」では、維摩居士との問答が説かれています。
維摩居士は、富豪で出家はしていませんが、過去生の功徳により、真理を見通す智慧を持ち、
人々を仏の道に入らせたいと考えている人でした。
ある時、維摩が病気になり、お釈迦様が弟子たちにお見舞いに行くように言います。
ですが、弟子たちは維摩が智慧を持つため、なかなか行きたがりません。
やがてお釈迦様は、文殊菩薩に声をかけます。
文殊菩薩も当初は、自分には無理だと思いますが、行くことにしました。
すると、他の弟子たちも維摩と文殊菩薩の対談が聞けるとついていきます。
そして、対談の中で最後に維摩は、悟りの世界とはどんなものかと聞きました。
そこにいた菩薩たちがそれぞれ意見を言います。最後に文殊菩薩は、
「皆さんが言われたことは、それぞれもっともなことです。
ですが、言葉に表した時点でそれはもう悟りから離れてしまいます。
本当の悟りというのは、言葉を離れた、説くことのできないものだからです」
そして、維摩にどうお考えか質問しました。
すると、維摩は一言も話さず沈黙しました。
それに対して文殊菩薩は、
「すばらしい。悟りというのは、言葉を離れた世界ですから、あなたの答えこそもっとも正しい」
と称讃しました。
このように文殊菩薩は、そのすぐれた智慧によって、言葉を離れた悟りの世界を教え、
苦しみ悩む人々をその世界へ導こうとされている菩薩ということです。
仏教には、このように言葉で表すことのできない、絶対の幸福が教えられています。
それは、煩悩がそのまま喜びと転じる世界です。