普賢菩薩

普賢菩薩(ふげんぼさつ)は、文殊菩薩(もんじゅぼさつ)とともに、
お釈迦様(釈迦如来)の脇侍(きょうじ)で、慈悲を表す菩薩です。

その姿や功徳をすべての場所にあまねく示す者という意味があります。
よく、象に乗っている姿で表されていますね。

まず、菩薩というのは「菩提薩埵(ぼだいさった)」のことです。
「菩提」というのは、仏のさとりのことで、「薩埵」は人のことです。
つまり、まだ仏のさとりを開いていないので、仏さまではありませんが、
仏のさとりを目指して努力している人のことを言います。

中でも普賢菩薩は菩薩の中でも上位で、指導者的な立場にあります。

普賢菩薩の意味

普賢は、インドではサンマタバダラと呼ばれます。
「サンマタ」は、あまねくという意味で、「バダラ」は、賢いという意味です。

中国では、遍吉(へんきち)とも言い、遍は普、吉は賢と同じ意味になります。
なので、サンスクリット語で「サンマタバダラ」を中国語で訳し、遍吉とも普賢とも呼ばれるようになりました。

普賢菩薩は象に乗っていると言いましたが、牙が6本ある象に乗ってやって来て、
行者を守護するといわれています。

このように、普賢菩薩は象に乗っていると説かれることから、象を乗り物とする普賢菩薩像がたくさんあります。
また、法華経(ほけきょう)では女人成仏(にょにんじょうぶつ)が説かれていて、
十羅刹女(じゅうらせつにょ)が守護するとも説かれるので、
普賢菩薩が女性と一緒に描かれていることもあります。

普賢菩薩のご利益

有名なご利益は、延命です。

ここで疑問が出ると思います。
「人は必ず死ぬのに、なぜ延命なの?」

これは永遠の命とか、ただ命を延ばせばいいということではありません。
どんなに命を延ばしても、やがては必ず死んでいくのは変わりません。
延命はどうしても一時的なことです。

なぜ延命なのかというと、幸せや生命の歓喜の為になります。
「生きてて良かった」と思う、生命の歓喜を得てこそ、延命が意味を持ちます。

他にも、その延ばした命で何をするのかという、生きる意味や目的を持つことも大事です。

普賢菩薩の十願(じゅうがん)

普賢菩薩がどんな人だったかが、華厳経(けごんきょう)に書かれています。

華厳経は、お釈迦様が仏のさとりを開かれて、知らされたままの自内証(じないしょう)を
ぶちまけられたお経といわれます。

自内証(じないしょう)⇒ 仏教用語。 自らのうちに体得された真実。 真実が他に対して伝えがたいことを表現するとともに,真実は自ら悟らねばならないことを示す言葉。

その時集まって聞いていた人たちは、あまりのすごさ尊さに、如聾如唖(にょろうにょあ)になったそうです。
つまり、聾(ろう)や唖(あ)のように、耳が聞こえない人のように、言葉がしゃべれない人のようになった、
ということです。

言葉の意味はわかるが、あまりに深すぎて何のことかさっぱりわからない、声もでないということです。
その中でも、文殊と普賢だけは、時折うなづいて聞いているようであった、といわれます。

そして、華厳経には普賢菩薩の十願(じゅうがん)とか行願(ぎょうがん)が説かれています。

1.諸仏を敬う
2.仏のお徳を称讃する
3.諸仏を広く供養する
4.悪い行いを懺悔する
5.仏の功徳をともに喜ぶ
6.仏が教えを説かれるようお願いする
7.仏が涅槃(ねはん)に入られずにこの世にとどまってくださるようお願いする
8.常に仏にしたがって学ぶ
9.常に相手に応じて導く
10.功徳をすぺての人に施す

このように、普賢菩薩は、大宇宙のどこへでも、縁の深い人の前へ行って教えを説くことにより、
すべての人を救いに導く菩薩ということです。

おわりに

仏教には、私たちは、果てしない過去から生まれ変わり死に変わり、
苦しみ迷いの旅を続けていると教えられています。

その迷いや苦しみがある限り、どんなに科学が進歩しても、生活が豊かになっても、
心からの安心や満足が得られません。

そこで仏教は、その苦しみ迷いの根元と、それを断ち切る道を教えられています。
その苦悩の根元が断ち切られた人が死ねばどうなるかというと、悟りの世界へ行き、
仏のさとりが得られます。

仏になるということは、慈悲の塊になるということなので、
まだ苦しんでいる人があるのに、自分だけ幸せになって、じっとしていることはできません。

さらに、悟りの世界へ生まれた人は、「普賢の徳を実践する」と説かれています。

つまり、普賢菩薩のように、大宇宙のどこへでも、すぐに飛んでいき、
すべての人を救い大活躍するということになります。

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