執着しゅうじゃく

執着」の読み方は「しゅうじゃく」です。または「しゅうちゃく」とも読みます。
意味は、とらわれるとか、こだわる、ということです。<執著>とも書きます。

私たちは、何かにとらわれたり、こだわったりするとやめることができなくなります。
思い出の品に執着して捨てられず、本やぬいぐるみなど大切にしているものがどんどんたまって
部屋がいっぱいなどということがないでしょうか?

また、人付き合いでもそうです。
別れたのに忘れられないとか、立場にこだわるとかたくさんありますよね。

ところが考えてみればおかしなことです。
どんなに執着しても、最期亡くなる時にはすべて置いていかなくてはなりません。

確かに、ある特定の人や物に対してなら、執着している物を捨てたり、
執着している人と別れたりすれば、その物や人への執着はなくなります。
しかし、新しい何かに執着するのが人間です。
執着自体をなくすことはできません。

2つある執着の意味

仏教では、苦しみの原因は執着であると教えられています。
さらにその執着に2つあると教えられています。

このように言うと、「人」と「物」でしょうと思われるかもしれません。
少し違っていて、

  • 我執(がしゅう) ⇒ 自分にとらわれる心
  • 法執(ほうしゅう)⇒ 自分以外の存在(物など)にとらわれる心

この2つになります。

我執

まず1つ目の「我執がしゅう」とは何かというと、自分に実体があると思う心です。
ここで質問ですが、本当に自分に実体はあるのでしょうか?

それは、因果の道理でわかります。
因果の道理とは、すべてのものは、因と縁がそろって生じたものである、ということです。

すると、私とは何でしょうか?
普通誰しも、自分の身体(手足、胴体、頭など)は自分のだと思っています。
しかしそれは、私の身体です。

現在は医療技術が進歩しているので、移植ができます。
例えば、もし体全体を別の臓器に入れ替えてしまったら、私は一体どこにいるのでしょうか?

顔もそうです。生まれた時から、歳を重ねるにつれて年々変わっていきます。
ですから、顔もやはり自分の顔であって自分ではありません。

それでは脳はどうでしょうか?
事故などにより、一部が壊れても生きている人もいます。
また、歳をとり忘れていってしまったりして、記憶が失われても自分は続いています。
やはり私の脳であって、私ではありません。

こうして考えて行くと、混乱すると思いますが、これが私だというものはどこにもありません。
私というのは、色々な因縁がそろって今、一時的に現れている働きであって実体はないのです。
これを「無我むが」といいます。

つまり、変わらない私というものはない、ということです。
ところが私たちは、変わらない私というものがあると思っています。

これが「我執」です。
それは錯覚なのです。

法執

法執ほうしゅう」の「」とは、様々な存在要素です。
この世のすべては、因縁がそろって生じているのですが、因と縁が離れればなくなります。
固定的な存在要素というものはありません。
実体はないということです。

例えば、車は誰が見てもそこに車が存在すると思います。
ですが、すべての部品をバラバラにすると車だとわからなくなります。
何百万という部品が集まって、組み立てられているから車なのです。

さらに、一つの部品をどんどん小さく分解していくと、やがて分子になり、
原子になり、最後には素粒子になります。

現代の物理学では、そのような物質を構成している素粒子に大きさはなく、ただ関係だけがあります。
実体はありません。

このように、構成されているこの世のすべてには実体はないのです。
ところが私たちは、色々な物がこの世に、目の前に実在すると思っています。
これが法執です。
法執も我執と同じく錯覚です。

執着によるしくみ

私たちは、この我執と法執の2つによって、
「私のお金だ」「私の立場だ」「私の子どもだ」などと、執着を起こします。

お財布を落としたらどうなりますか?きっと大騒ぎして探しますよね。
それはお財布を、私のものだと執着しているからです。
執着していなければ、何とも思いません。

子育てにしても、最中は忙しく楽しく過ごしていますが、
やがて成長し巣立っていくと、心にぽっかり穴が開いたように感じます。
これもまた、子供に執着していたからです。

この世は諸行無常の世界ですから、一切は移り変わって行きます
やがて執着していた物が失われるときがやってきます。
それが死ぬ時です。

死ぬ時には、今まで執着していたものすべてを失います。
執着していたものは一つも持っていけないのです。

執着したものが自分から離れている時、執着が大きければ大きいほど、私たちは苦しみます。

なので、お釈迦様は私たちの苦しみの原因は煩悩であり、執着であると教えられているのです。
煩悩」というのは、私たちを煩わせ、悩ませるもので、執着は煩悩であり、
煩悩を別の側面から教えられたものです。

執着から離れるには

お釈迦様は、この執着を離れなさいということで、因果の道理を説かれ、
一切は無我であり空であることを教えてくださっています。

つまり、「」が本当に分かれば、執着を手放し、断ち切ることができる、ということです。

私たちは執着で苦しんでいるので、執着を手放しなさい、捨てなさいというのは大変分かりやすい言葉です。
そう言われると、「うん確かにそうだ、そうしよう!」と思われると思います。
そして、執着から離れようと「何事にもとらわれないようにしよう!」と考えると思います。
そうした結果、執着から離れようと執着してしまっています。
この執着はいけないという執着も煩悩です。

ですから、本当に離れるには執着から離れることにも執着しないようにしなければいけません。

おわりに

このようにどんなに淡々と、生きようとしても大変難しいことです。
頭ではわかっていても、なかなかできることではないと思います。

どんなにすごく実践されている人でも、大切な人が亡くなった時などは心が動くと思います。

これでもまったく心が動かないほうが、人間性に欠ける冷たい人になってしまうのではないでしょうか。

私たちは人間である以上、執着を離れることはできないのです。
執着を捨てることも、手放すこともできません。

お釈迦様がおっしゃっていた執着を離れなさいという教えは、方便なのです。

現在よく使われる、嘘も方便のように嘘だととらえる人が多いかと思いますが、
この方便という言葉は、仏教からきた言葉で、目的に近づける手段のことです。

執着や煩悩は、確かに苦しみの「原因」ですが、さらに、苦しみの「根本原因」があって、
その苦しみの根本原因をなくせば、執着も煩悩もあるままで、絶対の幸福になれるとおっしゃっているのです。

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