阿頼耶識あらやしき

私たちは、この宇宙のこの世界で生まれて、みんな同じ時間の中で生きていると感じているのではないでしょうか。
それが実は仏教では、ひとりひとりの世界に生きていると教えられています。

私たちの心

私たちの心は、8つの心でできています。それを、「八識はっしき」と言います。
「識」は心のことで、8つなので八識となります。
それは次の8つになります。

  1. 眼識げんしき ⇒ 色や形などを見分ける力。
  2. 耳識にしき  ⇒ 音を聞き分ける心。
  3. 鼻識びしき  ⇒ においをかぎ分ける心。
  4. 舌識ぜっしき ⇒ 甘さや辛さなどの味を見分ける心。
  5. 身識しんしき ⇒ 寒いや痛いなど身体で見分ける心。
  6. 意識いしき  ⇒ 1~5までの識(前五識ぜんごしき)を統制して、記憶や判断、考え、命令したりする心。
  7. 末那識まなしき ⇒ いつも阿頼耶識にまとわりついて執着する心。
  8. 阿頼耶識あらやしき ⇒ 「阿頼耶あらや」+「しき」で、「」は心なので、阿頼耶識は「蔵の心」。「蔵識くらしき」ともいわれます。

末那識まなしき

末那識は、いつも阿頼耶識にまとわりついて執着する心です。
意識は寝ている時や、卒倒した時には途切れます。
本当は無我(むが)なのに、末那識はいつも阿頼耶識を変わることのない我だと思ってしまうのです。

ちなみに無我は、無我夢中や無我の境地などとよく使われます。
ですがこれは、一つのことに没頭する意味合いなので、無我というより、我を忘れている状態ですね。

仏教では、「諸法無我しょほうむが」ですので、諸法(すべてのもの)は無我(私というものは無い)ということで、変わらない実体があると思うのは錯覚であり、迷いであり、そんなものはどこにもないというのが、諸法無我です。これは、最近の研究で科学的に実証にも成功しました。

阿頼耶識あらやしき

私たちの肉体は、生まれたときにできて、死ねば滅びます。
阿頼耶識は、とても大きな流れのある河のようなものです。
肉体が生まれるずっと前から、
肉体が滅びても、滅びることなく続いていきます。

果てしない遠い過去から、永遠の未来に向かって流れて行く、私たちの永遠の生命を阿頼耶識と言います。
肉体はその大きな河の水面にできた泡のようなもので、泡がいくらできようが大河は減ることも増えることもありません。私たちの本心(本当の心)は、阿頼耶識です。

たとえば、お店に買い物に行きます。レジには店員さんがいて、すぐにわかります。
何か聞きたいことがあると、その店員さんや他のフロアの店員さんに聞いたりしますが、それでも解決しない時は、奥から店長さん、もしくは社長さんなどが出て来ます。
経営者は、あまり表にいることは少ないですが、どんな商品を置くか、どんなお店にするのか経営戦略を立てて、
大事な意思決定をしています。

このように、私たちは普段自覚して生活しているのは意識ですが、それよりもとても深く、はるかに強い力で
私たちを動かしているのが、阿頼耶識なのです。

阿頼耶識に入っているもの

阿頼耶識は、「蔵の心」です。中には何が入っているのでしょうか?

そこには、業力ごうりき」が入っています。
カルマとも呼ばれる業とは、行いのことなので、
業力とは、行いの力ということです。

私たちの行いは、3つの方面から見られます。

心で思ったことを「意業いごう」、
口で言ったことを「口業くごう」、身体で行ったことを「身業しんごう」と言います。
これらの心や口、身体で行ったことが目には見えませんが決して消えることの無い、
不滅の業力となり阿頼耶識に入っています。

さらに、阿頼耶識には業が種子(種)のように入るので、「種子識しゅうじしき」とも言い、
入った業を、「業種子ごうしゅうじ」とも言います。

このように阿頼耶識は、業力をおさめながら次々と変化し、消えることなく流れていきます。

おわりに

業力にはものすごい力があって、やがてそれが運命を作り出します。
善い行いをすると、善業力(ぜんごうりき)で、幸せな運命を生み出し、
悪い行いをすると、悪業力(あくごうりき)で、不幸や災難を生み出します。

だから因果応報なのです。

こうして私たちは普段、みんな同じもの見ているようで、実はそうとは限りません。
阿頼耶識に蓄えられた自分の業力により、ひとりひとり全く違う世界を生み出し、全く違うものを見ています。

そして肉体が滅びても、阿頼耶識は続いて行き、蓄えられていた業力によって、次の世界を生み出します。

こうして、私たちは生まれ変わり死に変わり、輪廻転生(りんねてんしょう)していくのです。

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